『告白』・・・“なーんてね”
2009年本屋大賞を受賞した湊かなえの原作を、今年4月の文庫化と同時に手にし数時間で読了した。・・・最悪の読後感だった。何の救いもなく、歪みきった登場人物の誰一人として共感できる者もなく・・・。
でも、同時にものすごく面白いとも思った。読み始めたら止まらないのだ。ただし、「面白かったよ」と人に薦めるときに、“面白い”の定義について補足説明が必要になってしまうのだが。
というわけで原作を事前に読み終えた上で、本日公開の映画版をさっそく観てきた。
・・・これは傑作だ!
何よりもまずはその映像である。中島監督の映像表現はさすがの一言。
登場人物が一方的に語りかけてくる・・・告白するという主観的スタイルが原作の特徴だが、これは読み物としては面白くても映像作品には本来不向きであろう。
教壇に立つ女教師の独白、その教師に宛てたメールをパソコンに打ち続ける女子生徒、女子生徒と幼なじみの男子生徒のつぶやき、その生徒の母親がしたためていた日記、同じくその生徒を利用した天才少年のウェブサイトでの遺書であり挑戦状でもある犯行声明。そして最後はその少年と女教師との携帯電話でのやりとり。
これらをそのまま映像にしたところで何の面白みもない。かといって彼らのこうした“告白”からみえてくるプロットだけを拾い繋いで第三者視点で再構築したような安易なドラマ化では、それこそ火サスのレベルになってしまう。(そもそもこれやっちゃったら「告白」というタイトルではなくなるわな)
それを監督は巧みに映像化してくれた。原作ではそれぞれの告白が章ごとに独立して書かれているのに対し、監督はストーリーを追ううえで最適な順序に細かく並べ直した。またそれらの告白が現実なのか空想なのか・・・あるいは嘘なのか、随所に曖昧な味付けをしてみせた。そしてそれがあえて彩度を落とした映像や、いかにも中島チックな映像に振り分けられていて、キャストそれぞれが淡々と語っていくだけの悪く言えば飽きやすい内容を視覚的にも見事に膨らませていたと思う。
もともと中島監督の作り出す映像は単にポップでカラフルなだけではない。例えば本作での水たまりを駆け抜ける女子生徒たちのスローモーションなど、まさに中島ワールドである。
登場人物の告白が真実とは限らない。監督はそこにも注目したそうだ。なるほどである。
考えてみれば、「実はね」とか、「ここだけの話だけど」といった前置きで始まる話ほど胡散臭いものはないのが世の常である。松たか子演じる女教師、森口悠子先生の娘を殺されたことへの復讐劇。犯人である二人の生徒を彼女がじわじわと追い詰めていく異常性が見所でもある本作だが、彼女が真相を知りえたのは他ならぬ犯人の“告白”があったからだ。特に少年Aの言動は、その性質はともかく実に理路整然と辻褄が合っている。「こういう子はどこかで巧みに嘘を織り交ぜているに違いない」といったことを監督自身が語っているが、ラストでそのあたりがしっかり描かれていた。「どの面下げてそんな嘘を・・・」という原作にはない悠子のセリフが、天才の仮面が急速に剥がれていく少年Aに決定的な打撃を与える。このセリフは効果的だった。
利用されたほうの生徒・・・少年Bのつぶやきにも、嘘かほんとか彼にしかわからない重大な告白が登場する。悠子の娘愛美の死因についての決定的な証言となり得る一言である。もっとも理科教師の悠子は彼らが愛美に与えたショックが心停止に至るほどのものではなかったことを確信しているので・・・・・えーと、これあんまり書かないほうがいいかな。ネタバレ回避(笑)
劇中では三組の母子愛が描かれる。
中心となるのは娘愛美を殺された母悠子の執念とも言える愛情。ある事情で父親に抱かれることを知らぬまま逝った娘の不憫さに泣き崩れる母の愛が、やがて静かな憎悪に変わっていく。
少年Bの母親は事件後もBをかばい続ける過保護振りが痛々しくさえある。息子のある言葉で真実を知ってしまい早まった行動に出るが・・・。彼女のゆがんだ愛情とその結末はなんとも哀れであった。
少年Aの母親が電子工学の研究者だったことが、Aにとっては悲劇の始まりだったのかもしれない。教育熱心な母に“捨てられた”あともずっと愛を求め続けたAは、自らの手で取り返しの付かない事態を招いてしまう。
純粋な愛とそのかすかな異常性・・・。けっきょく誰も救わないし救われない。
ラストシーンは少しだけ原作と違っている。少年Aに悠子がどこから電話をかけているのかが異なるのである。これも巧いと思った。復讐劇の仕上げとして彼女が姿をあらわすくだり、少年Aが完全に打ちのめされることになる爆弾の話がハッタリのようにも見えてくるのだ。
原作のラストではどうだったか今読み返してみたが、作者の湊かなえも読者に委ねているふうに取れなくもない。ただ、爆発があったかなかったかの曖昧感は映画のほうが強かったな。とにかく、爆発の有無よりもAがケータイの発信ボタンを押したこと、これがすべてなのだ。
この作品を予告編で知った関係上、原作を読むにあたって私の頭の中では森口悠子のイメージは既に松たか子に重なっていたが、いざ本編を観終わって思うにこのキャスティングはやはりドンピシャであった。凛とした知的な教師像は松にぴったりだし、一方で憂いや狂気のようなものを内に秘める翳りのような部分もよかった。
とあるテレビ番組の中で松の抜てきについて語る監督が、「だってセリフめちゃくちゃ多いから土屋アンナじゃ絶対無理でしょ」と言ってたのには思わず吹き出してしまったものだが、土屋ももちろん中島作品には欠かせない女優である。彼女同様今後の中島作品に松たか子が再登場することをぜひ期待したい。
悠子の復讐劇を正義として描いたり、少年Aの理解者になりかけていた女子生徒を悲劇のヒロイン的に描いたり、あるいはウェルテルこと寺田先生がバカなKY教師でなく真の熱血教師だったりしていたら、この作品は極平凡な一編にしかならなかっただろう。そんな安っぽい浪花節じゃないおかげで、かくも印象的な作品になったのだ。
強烈な後味の悪さと抜群の面白さ、こんな観後感を同時に得られる作品など、そうお目にかかれるものではない。
ちなみにスクリーン暗転後の悠子の一言、これ原作にはない。でこれがまたいろんな意味でお見事としか言いようがないのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・な~んてね!
※記事中最後の「な~んてね!」はあくまでネタであり、本文内容を否定するものではありません。SOAR
でも、同時にものすごく面白いとも思った。読み始めたら止まらないのだ。ただし、「面白かったよ」と人に薦めるときに、“面白い”の定義について補足説明が必要になってしまうのだが。
というわけで原作を事前に読み終えた上で、本日公開の映画版をさっそく観てきた。
・・・これは傑作だ!
何よりもまずはその映像である。中島監督の映像表現はさすがの一言。
登場人物が一方的に語りかけてくる・・・告白するという主観的スタイルが原作の特徴だが、これは読み物としては面白くても映像作品には本来不向きであろう。
教壇に立つ女教師の独白、その教師に宛てたメールをパソコンに打ち続ける女子生徒、女子生徒と幼なじみの男子生徒のつぶやき、その生徒の母親がしたためていた日記、同じくその生徒を利用した天才少年のウェブサイトでの遺書であり挑戦状でもある犯行声明。そして最後はその少年と女教師との携帯電話でのやりとり。
これらをそのまま映像にしたところで何の面白みもない。かといって彼らのこうした“告白”からみえてくるプロットだけを拾い繋いで第三者視点で再構築したような安易なドラマ化では、それこそ火サスのレベルになってしまう。(そもそもこれやっちゃったら「告白」というタイトルではなくなるわな)
それを監督は巧みに映像化してくれた。原作ではそれぞれの告白が章ごとに独立して書かれているのに対し、監督はストーリーを追ううえで最適な順序に細かく並べ直した。またそれらの告白が現実なのか空想なのか・・・あるいは嘘なのか、随所に曖昧な味付けをしてみせた。そしてそれがあえて彩度を落とした映像や、いかにも中島チックな映像に振り分けられていて、キャストそれぞれが淡々と語っていくだけの悪く言えば飽きやすい内容を視覚的にも見事に膨らませていたと思う。
もともと中島監督の作り出す映像は単にポップでカラフルなだけではない。例えば本作での水たまりを駆け抜ける女子生徒たちのスローモーションなど、まさに中島ワールドである。
登場人物の告白が真実とは限らない。監督はそこにも注目したそうだ。なるほどである。
考えてみれば、「実はね」とか、「ここだけの話だけど」といった前置きで始まる話ほど胡散臭いものはないのが世の常である。松たか子演じる女教師、森口悠子先生の娘を殺されたことへの復讐劇。犯人である二人の生徒を彼女がじわじわと追い詰めていく異常性が見所でもある本作だが、彼女が真相を知りえたのは他ならぬ犯人の“告白”があったからだ。特に少年Aの言動は、その性質はともかく実に理路整然と辻褄が合っている。「こういう子はどこかで巧みに嘘を織り交ぜているに違いない」といったことを監督自身が語っているが、ラストでそのあたりがしっかり描かれていた。「どの面下げてそんな嘘を・・・」という原作にはない悠子のセリフが、天才の仮面が急速に剥がれていく少年Aに決定的な打撃を与える。このセリフは効果的だった。
利用されたほうの生徒・・・少年Bのつぶやきにも、嘘かほんとか彼にしかわからない重大な告白が登場する。悠子の娘愛美の死因についての決定的な証言となり得る一言である。もっとも理科教師の悠子は彼らが愛美に与えたショックが心停止に至るほどのものではなかったことを確信しているので・・・・・えーと、これあんまり書かないほうがいいかな。ネタバレ回避(笑)
劇中では三組の母子愛が描かれる。
中心となるのは娘愛美を殺された母悠子の執念とも言える愛情。ある事情で父親に抱かれることを知らぬまま逝った娘の不憫さに泣き崩れる母の愛が、やがて静かな憎悪に変わっていく。
少年Bの母親は事件後もBをかばい続ける過保護振りが痛々しくさえある。息子のある言葉で真実を知ってしまい早まった行動に出るが・・・。彼女のゆがんだ愛情とその結末はなんとも哀れであった。
少年Aの母親が電子工学の研究者だったことが、Aにとっては悲劇の始まりだったのかもしれない。教育熱心な母に“捨てられた”あともずっと愛を求め続けたAは、自らの手で取り返しの付かない事態を招いてしまう。
純粋な愛とそのかすかな異常性・・・。けっきょく誰も救わないし救われない。
ラストシーンは少しだけ原作と違っている。少年Aに悠子がどこから電話をかけているのかが異なるのである。これも巧いと思った。復讐劇の仕上げとして彼女が姿をあらわすくだり、少年Aが完全に打ちのめされることになる爆弾の話がハッタリのようにも見えてくるのだ。
原作のラストではどうだったか今読み返してみたが、作者の湊かなえも読者に委ねているふうに取れなくもない。ただ、爆発があったかなかったかの曖昧感は映画のほうが強かったな。とにかく、爆発の有無よりもAがケータイの発信ボタンを押したこと、これがすべてなのだ。
この作品を予告編で知った関係上、原作を読むにあたって私の頭の中では森口悠子のイメージは既に松たか子に重なっていたが、いざ本編を観終わって思うにこのキャスティングはやはりドンピシャであった。凛とした知的な教師像は松にぴったりだし、一方で憂いや狂気のようなものを内に秘める翳りのような部分もよかった。
とあるテレビ番組の中で松の抜てきについて語る監督が、「だってセリフめちゃくちゃ多いから土屋アンナじゃ絶対無理でしょ」と言ってたのには思わず吹き出してしまったものだが、土屋ももちろん中島作品には欠かせない女優である。彼女同様今後の中島作品に松たか子が再登場することをぜひ期待したい。
悠子の復讐劇を正義として描いたり、少年Aの理解者になりかけていた女子生徒を悲劇のヒロイン的に描いたり、あるいはウェルテルこと寺田先生がバカなKY教師でなく真の熱血教師だったりしていたら、この作品は極平凡な一編にしかならなかっただろう。そんな安っぽい浪花節じゃないおかげで、かくも印象的な作品になったのだ。
強烈な後味の悪さと抜群の面白さ、こんな観後感を同時に得られる作品など、そうお目にかかれるものではない。
ちなみにスクリーン暗転後の悠子の一言、これ原作にはない。でこれがまたいろんな意味でお見事としか言いようがないのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・な~んてね!
※記事中最後の「な~んてね!」はあくまでネタであり、本文内容を否定するものではありません。SOAR
この記事へのコメント
確立している作品でしたね。
悠子の壮絶な復讐劇は凄まじく、スクリーンに見入るように観ていました。
いろいろと考えさせられる作品ではあるのでしょうけど、
そういうのをすっ飛ばして観るのが、この作品の鑑賞方法かもしれません。
さすがの中島監督でしたね。
本はだいぶ前に読んでたので、やっぱり数時間で読み終えましたが、なので中身を結構忘れてたのがちょうどよかったです。
しっかし、土屋アンナさんの話が面白いです。
松さんって、こんなにすごい女優さんだっけ!と思わせられました。どんなキャラでも出来るのがすごいですよね。
子を殺された母の復讐劇。教師としての倫理観がぎりぎりの均衡を保つ狂気、いやあ凄まじかったですね。
そうですね、“問題作”として考えさせられる部分は多いと思います。とりあえずそういうのを抜き鑑賞し、それからじっくりとことん考えてみるのもいいかもしれません。
映画も原作も不快感や嫌悪感がぐるぐるしっぱなしの中、最後まで目が離せず引き込まれました。
それこそラジオドラマでも成り立ちそうな原作に映像の奇才と言われる中島監督が目を留めたことを考えると、映画としてのこの完成度は当然なのかもしれませんね。
中島監督、やってくれました。
その監督の土屋アンナ話、ファミリーとして仲がいいんでしょうねえ。
松たか子は言うことナシです!原作でイメージした森口悠子そのものでした。
そうなんです。コレが全て。もっといえば押させられたことを本人が知ってしまった。コレがもう強烈な復讐なんだと思いました。私は爆弾は爆発していないと思っているのですが、それはそれをしたらただのテロになってしまうから。当然母親を殺させたかったのだけれども止めたのが道中の悠子の涙なのかなと思っています。しかしあの鼻血。因果応報かなと思ったしそうあって欲しいとすら思ってるんですけどね。
それにしても中島監督の演出が素晴らしいです。色彩表現もスーパースローの映像も実に効果的。告白というタイトル通り、実際告白を並べた話なわけですが、あのスーパースローは一体誰の脳裏に移った映像なんでしょうか。
ボタンを押したのは彼自身がわかっているし爆弾の威力も彼自身は知っている。だから押した事実こそが悠子の復讐のすべてなわけですよね。あとはハッタリで構わない。そう考えると爆弾は解除した状態のままなのでしょう、たぶん。
登場人物の“告白”という主観スタイルの面白さは正にここにあると思います。けっきょくみんなどこまで真実を語っているんだかわからないですからねえ。
あのスーパースローをあそこに挿入する監督のセンスには唸るしかありません。でも、あーそうか、私そこまで考えてませんでしたよ。主観の告白が並ぶ構成ですもんね。誰がイメージした光景なんでしょうね。これも考えれば考えるほど面白いです。
皆さんハマってるようですね~ こんなに絶賛されてるとは
批評詳しい人から賛否両論だよって観た人に聞いてたから
そうだろうなぁって思ったけど
本文皆さん絶賛に書き換えた方がいいくらい?(笑)
わたしはそこまでじゃなかったけど脚本面白いし、
中学生以外のキャストが良かったです。
あとは世界観にハマれるかですよね。
本当に中島監督の演出は恐ろしいまでに凄いです。
私もこれはきっぱり二つに評価が分かれるだろうと踏んでましたが、日頃お付き合いのある映画ブロガーさんたちの評価、予想以上に高いですね。絶賛の私が言うのもヘンですが、ここまで支持される作品とは思ってもいませんでした。
脚本、いいですよねえこれ!
中島監督っていい原作を見出す目もあるし、それをまたいい脚本に起こすんだよなあ。
ああ、それいい表現です。見ているうちに徐々に徐々に心が侵蝕されていくような、でそれが快感になってしまうような、そんな味わいがありましたね。
中島監督って持ち味の独創的なアイデアを、きっちり形にしてくる人ですよね。凄いわ。
原作はまだ未読なんですが,アマゾンの原作のレビューには,けっこう「Ⅰ章以外はワンパターンで退屈」というのがあったんですよ。でも映画の方は緊張感たっぷりで一瞬も退屈する暇なんてなかったので,やっぱり監督の構成が上手かったんですね。そうそう,いろんな技術を駆使しての見事な映像も「告白の繰り返し」という原作の単調さを解決していましたね。
この監督さんの他の作品も観てみたくなりました。
>Ⅰ章以外はワンパターン・・・
う~ん、私はそうは感じなかったですけどねぇ。まあ確かに悠子の告白で衝撃を受けた後は、その裏を取る形でその他の人物の告白が延々と続くのは事実ですが・・・。
いずれにしろ映画の構成はそういった退屈感を完全に払拭していたと思います。中島監督作、独特のクセがあるものの私はけっこう好きですよ。『パコと魔法の絵本』は一昨年のマイベスト3です。
ただし、本作で彼のイメージがガラッと変わりました。
僕もこちらの作品は傑作だと思います。
原作未読で比較はできないのですが、一本の映画として人間性の本質に迫っているかと。
人間誰しも自己中心的であり、その発言がすべて事実とは限らず。
彼ら彼女が認識している世界としては真実なのですが。
そういう人間の限界をエンターテイメントの枠の中で、果敢に表現しようと試みた作品と思いました。
確信犯的に嘘を言っている場合と、妄想を真実として語っている場合と、このあたりの境界線が微妙かつ絶妙に表現されてましたよね。後者の場合、はらやんさんがおっしゃるように本人たちの認識としては真実ですから。
映画ではさらっと流してましたが、Bの母親の「やればできる子なんです」に対する森口の言葉が原作ではとても印象的です。母親の語る“真実”をひっくり返します。ある意味言葉遊びではありますが・・・。
読書家のはらやんさんもぜひ。
絶望的な後味の悪さ。
本当にその通りでした。
松たか子と木村佳乃の「母の愛」は狂気的ですらあるくらいでしたが
少年Aの母親は、育児放棄...
でも、母親に捨てられても、子どもは母親の愛を求め続ける...というのが複雑な気持ちにさせられました
少年Aの幼さが母への思いに表れていましたよね。そこに付け込んだ森口教諭の復讐劇はほんとに恐ろしかったです。
松と木村、このキャスティングはぴったりでしたよね。相反するようでどこか共通する部分もある、そんな母親像でした。
ラストでは救いと希望があるかのように見せて・・・・。いやあ衝撃的でした。