『虹色ほたる ~永遠の夏休み~』・・・珠玉のタイムスリップSFファンタジー

舞台は1977年の深山井村。間もなくダムに沈むこの村に2001年からタイムスリップに巻き込まれてやってきた6年生のユウタ。彼は2000年に父親をバイク事故で亡くしているのだが、77年の深山井村で出会う少女さえ子が未来に起こるその事故に関係していることを知る・・・。

昭和の時代にタイムスリップした少年の体験を通して大人たちにノスタルジーを・・・といった単純な作品かと思っていたら、いやいや、記憶の概念などSFとしてさらにひねりの効いた奥の深い不思議な物語であった。

まず目が行くのが独特なタッチの作画である。もちろん手描きによるアニメーションなのだが、それにしても非常にシンプルなラインで描かれるキャラクターたちに正直最初は戸惑った。が、慣れてくるとこれがまた味があっていいのだ。しかも最小限の輪郭線しか与えられてないそんなキャラクターたちが、表情豊かに実に生き生きと動くのだから驚くばかり。アニメーションのなんたるかを改めて思い知らされた気がした。


 ■以下ネタバレあり



未来からやってきた自分が、なぜかさえ子のいとことして認識されていることに疑問を感じつつも村での日々を楽しく過ごすユウタ。実は蛍じいという不思議な老人(神様?)の力により“さえ子にはユウタといういとこがいる”という記憶が村の人に刷り込まれていたのである。そればかりかさえ子もまた蛍じいによって未来から送られてきていた。そしてそこには父のバイク事故に関わる悲しい事実があった。

ユウタとさえ子はある理由によって77年に送り込まれていたのだ。
さえ子には元の時代に戻る意思はなくこの時代で自らの命を終えようとしていること、それを止めることはできないことを蛍じいから聞かされたユウタは、祭りの夜に懸命にさえ子を説得する。生きようと。生きていつの日か必ず再会しようと。

ここでユウタの記憶からさえ子は消える。同時に友だちのケンゾーやさえ子のおばあちゃんからも彼女の記憶は消されてしまう。そしてユウタが街に帰る日を境に、今度はケンゾーやおばあちゃんからユウタの記憶が消えてしまう。
そして月日はめぐり・・・。


・・・と。ストーリーを追うのはこの辺でやめておこうか。
言ってしまえばほぼ予測通りの展開と結末にたどり着くのは間違いない。それでもやはり心に残るラストシーン。失った人はけっして戻らないけど、あの日消えかけていた二つの命は奇跡の・・・いや、必然の再会によって淡く、しかし力強く輝き始める。ダムの底に沈んだ小さな村でかつて見た数多の蛍の光のように。


ひとつだけ、とても気になった部分がある。それは祭りの夜にユウタがさえ子の手を取って蛍の群生地まで走っていくというクライマックスのシーン。ここでなぜか絵が変わってしまうのだ。実写をCG処理してアニメにしたとでも言おうか・・・。当然これには監督の狙いなり意図があるのだろう、それは理解する。しかし、せっかく昨今のアニメとは一線を画したタッチでここまで来たのになぜ?という思いがしてならないのだ。残念の一言に尽きる。
余談だが、クライマックスで懸命に走る主人公のタッチが絵的に徐々に変わっていくという点において、私が言葉を失うほどの感動を味わった唯一のアニメ作品が『クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』である。テレビ版エヴァの最終話もある意味同種の試みがあったと記憶しているが、少なくとも本作においてそんな演出は必要なかったのではないだろうか。これ、観た人によって思いっきり賛否が分かれるだろうなあ。


記憶が消され、現代に戻り、年月が経って・・・、それでもなお引き寄せあったユウタとさえ子のまさに時を超えた物語。劇中三回ほど登場する幻想的な蛍の群舞シーンも圧巻。これがすべて手描きだというから頭が下がる。一匹二匹のはかない光も、スクリーン狭しとたくさんの蛍が群れ飛ぶ光も、一切CGは使っていないそうだ。
少々苦言も呈したが、こうした作り手の意気込みも含め作品の完成度はかなり高いとみた。凝ったSF設定ながらそれを前面に出さないスタイルも成功していると思う。

東映アニメということを理由に迷っている方がいるとしたらもったいない。少年の時を超えたひと夏の体験とその後の奇跡は静かな感動を呼ぶ。ジブリとはまた一味違う瑞々しい作品世界をぜひ劇場で。


"『虹色ほたる ~永遠の夏休み~』・・・珠玉のタイムスリップSFファンタジー" へのコメントを書く

お名前
メールアドレス
ホームページアドレス
コメント