『真夏のオリオン』・・・オリオン座が時を超え導いたもの

これはまた一風変わった戦争映画だ。自己犠牲の精神を美談とすることもなく、あるいはそれを客観視して愚かさを嘆くというスタイルにもなっていない。そういうありがちな作品とは明らかに異なる作風に戸惑いも感じたが、これはなかなかよかった。

もちろん戦争映画である以上、例えば魚雷発射管室での事故や味方潜水艦の最期などで死者は出る。しかしそうした“死”を描くことで戦争の悲惨さや愚かさを訴えるという手法を基本的に取っていないのだ。仲間の“死”に直面しても、倉本艦長(玉木宏)以下イ-77潜のクルーたちは常にその先の“生”を見据える。死んだ者の残した意志を自分たちの生きる術へとつないでいく。泣き叫んだ挙句に死に急ぐようなクルーは一人もいないのである。

そんな潜水艦乗りたちの中、同乗する回天搭乗員たちは少々違う考えを持つ。彼らは戦争映画における典型的な“死に急ぐ若者たち”として描かれる。
私はこの作品中“回天”の扱いがとても印象に残った。

敵駆逐艦の艦長が浮上したイ-77潜の甲板に搭載される回天に気付き、
「戦うにふさわしい誇り高き日本海軍がなぜあんな兵器を作ったのか?何が彼らを狂わせたのか?」
と嘆くシーンがある。単に日本を悪と捉えるのではなく、人間魚雷という究極の特攻兵器が生まれてしまった背景そのものを憂うのだ。

また出撃を強く申し出る回天搭乗員をなだめ諭す倉本艦長の穏やかな言葉もいい。
「俺たちは生きるために戦っているんだ」

けっきょく倉本は一度も回天を出撃させない。敵艦の艦底に接触した際(だったか?)に1基を失うが、海底でのいわゆる“死んだフリ”の際に欠乏してきた艦内酸素を補うことに1基を活かし(回天は酸素魚雷がベース)、残った2基は最後の決戦で敵艦長の裏をかくためのデコイとして“無人で”射出する。

こうした回天の各シーンは、本来の目的である特攻兵器として描くことはしないが存在は伝えたいという福井晴敏氏の考えによるものだったのかもしれない。

潜水艦対駆逐艦というと往年の名作『眼下の敵』が思い出される。本作では明らかに『眼下の敵』を意識したと思われるシーンが随所に目立った。駆逐艦のソナー員が潜水艦乗員の歌声をキャッチしたり、艦長同士が敬礼を交わしたり、攻撃前に敵乗員の離艦時間を与えたりと、オマージュなのかただのイイトコ取り(笑)なのかは不明だが、海の男の描写にはもってこいのこうしたシーンはやはりいいものである。

遺品を通して現代と過去を語るというスタイル自体はありがちだが、本作では星座と楽譜(音楽)という二重のリンクが秀逸。前述のように戦争映画をちょっと違った角度で作り上げていることも評価できると思う。『亡国のイージス』はともかく、奇妙奇天烈な印象の強い福井晴敏関連作品の中では最高の作品ではなかろうか。
あえていうなら北川景子の印象が薄かったことが残念。二役のどちらもが中途半端で、男くさい戦争映画における女性キャストの重要さを改めて実感した。

現代のシーンと回想的に描かれる過去シーンとをつなぐ一枚の楽譜。真夏の早朝に見られるオリオン座をモチーフにしたこの曲が、戦闘が終わった両艦を熱く結びつける。
駆逐艦から発光信号が送られるシーンは作品中一番ぐっと来る名場面。そして両艦の乗員が見上げる空に輝くオリオン座はどこまでも美しい。
(ちなみに6月半ば現在のオリオン座はちょうど太陽と重なるように天にあるので見ることはできないが、8月には日の出直前に東の空に昇る。冬ではなく夏のオリオン座、その吉兆の輝きをぜひ拝みたいものだ)

余談①
現代の潜水艦にとっても海上の駆逐艦の脅威は変わらないが、さらにその上・・・上空から“眼”を光らせる対潜哨戒機もまた脅威である。海上自衛隊も保有する哨戒機P-3Cは皮肉にもオリオン(オライオン)の名を持つ。現代の潜水艦乗りが見上げるオリオンは必ずしも吉兆とは限らないようだ。

余談②
玉木演じる倉本艦長が音楽話で笑わせるシーンが2回あった。ショパンの『別れの曲』が流れる将校クラブと、ハーモニカが得意な艦長付き水雷員に冗談を言うイ-77艦内。
玉木くんといえばやはり某作某キャラのイメージが強いのはわかるけど、これは・・・ネタ?

「ち、千秋先輩!?ふおおー」(byのだめ)

 ★『真夏のオリオン』公式サイト

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